園長から

あかつき保育園は3つの保育の基本方針があります。

あかつき保育園長 山中 健司

  • こどもたちが安心して生活できる環境を整える
  • 自主性と思いやりを培う
  • いのちへの畏敬の念を培う

この3つの基本方針を元にあかつき保育園は小さな人たちとともに、あなたとともに、歩み続けます。


1. こどもたちが安心して生活できる環境を整える

保育園に入所してくるこどもたちは、なんらかの理由で昼間両親と一緒に過ごすことができないこどもたちです。このことは何を意味するのでしょうか?

原点である0才児で考えてみましょう。人間のこどもは、動物の中でもっとも未熟で生まれてきます。(これは、外的な働きかけによって人間に育てられることを意味していますが、このことはまた別の機会に触れます。)自分で立って歩くのに1年かかりますし、自分で食事が出来るようになるのには、それから数年かかります。お母さんがいないと、いのちそのものが危険になります。
即ち、お母さんとこどもが一緒にいることが出来ない状態は、こどもの「いのちが危険な状態」に置かれているといえましょう。いのちが危険な状態に置かれれば、当然情緒も不安定になります。このことは、入園直後のこどもの様子を思い出せば明らかです。さらに、様々な病気や交通事故のような不慮の事故も「いのち」を脅かすものであることは、言うまでもありません。

こどもにとって安定した生活とは、まずこうした「いのち」の危険から守り、情緒の不安定さを解消してあげることだと思います。
こどもが安定している状態をもう少し考えてみましょう。私達はよく、こどもが「おとなしく、静かに、一人で、手がかからなく遊んでいる」状態を見て、「安定している」と思う間違いをおかします。人間は、思っていることと実際に行動することと正反対になることがあります。こどもでいえば、保母(保育士)に「あまえたい、手をかけてほしい」と思っているのに、行動は、保母を困らせたり、叩いたりする状態のことです。目に見える行動だけ見て、いろいろなサジェッション(提案)や働きかけをしても、「あまえたい、手をかけてほしい」という要求や欲求は満たされません。

そうです、「こどもが安定している状態」とは「こどものこころ(要求や欲求)が満たされている」ということなのです。言いかえれば、こどもが生き生きと目を輝かせている(たとえ走り回って、あばれていても)状態こそ「安定している」といえるのです。残念ながら、今までの保育には、大人(職員や親)の都合や考え事をこどもに押し付け、大人が満足していることがしばしばありました。これからの保育は、あくまでこどもを中心に置いた保育が望まれています。

こどもをいのちの危険から守り、こどもに添うこと

これが第1の保育方針のすべてです。

2. 自主性と思いやりを培う

私が、当保育園に来て間もない頃、こどもたちと一緒に名城公園へ遊びに出かけました。むこうに着いて、「さあ、遊んでいいよ」というと、どうでしょう。パッと駆け出したのはほんの数人で、ほとんどの子は動こうとしません。「何だこりゃ?」と思っていると、一人の子が「先生、どこまで行っていいの?」と聞きます。

そうです、次の指示を待っていたのです。職員がいろいろ指示をしているうちにこどもたちは、自分で判断して行動するのではなく、職員の指示を待つという行動を取ることを学んでしまったのです。

大人の世界にもこれに似たことがあります。 また、自主性のもう一つの重要な要素として、自分の思ったこと、感じたことを素直に話す、伝えるということがあります。みんなの前で自分の意見をはっきりと話すということです。これなどは、はっきりいって大人の方ができません。

こうやって考えてくると自主性を培うとは、こどもに対して過保護、過干渉をせず自由に解放し、こどもが話すことを最後までしっかり聞いてあげることといえましょう。

ここで注意しなければならないのは、自由と放任は違うという事です。
自由をこどもたちに与えると、好き勝手なことをします。それはすべてこどもなりの行動ですから、間違うことがあるということです。 その時に、指示や強制をしないでサゼッション(提案)をすることが必要です。

サゼッション(提案)をするときに注意しなければならないのは「女の子だから」「幼児だから」等「~だから」をしないということです。そうやって型にはめていってしまい、個性を削りとってしまいます。大切なのは、その行動でひきおこされる相手(人であろうと物であろうと)の状況やその状況でみられる苦しみ、悲しみなどの感情を話してあげることといえましょう。

このことは後で触れる「思いやりを培う」に直結します。自主性とは、自分で考え、行動を選択し、自ら実践していくことだと考えます。そして、その力は過保護、過干渉を止め、自由に活動することによってのみ培われます。

次に、「思いやり」について考えてみましょう。前述のとおり、自主性とは自分で判断し、自ら行動することであります。したがってある意味では、自己を主張すること(自我)であります。

これに対し「思いやり」はちょっと違ってきます。「思いやり」とは、自分が行動することによって引き起こされる相手(人であろうと物であろうと動植物であろうと)の状態(苦しみ、痛み、悲しみ、喜び、傷づく、壊れるというもの)に心を寄せ、自ら行動を修正したり行動することを中止すること、いわば「自我の収縮」であります。

ところで「思いやりを培う」とはどういうことなのでしょうか?
人間は、自らの体験を通して物事を考えたり判断したりします。体験していないことはなかなか頭の中に浮かんできません。したがって、こどもたちが、苦しんだり、悲しんだり、喜んだり、傷つけたり壊したりする体験がなによりもまず必要です。

こどもたちは、「けんか」をすることによって「どうしたら仲良く遊べるか」を学んでいますし、「いじわる」をすることによって「どうしたらやさしくなれるか」を学んでいるのです。

そういう目で「けんか」や「いじわる」をみてほしいのです。学校で問題となっている、「いじめ」とは本質的に違うものなのです。

もう一つ大事な事は「思いやりを受ける体験」です。これも前述した理由と全く同じですが、こどもたちは回りの大人から「思いやり」をいっぱい受けることによって、「思いやり」がなんなのかを学んでいくのです。

「思いやりを培う」とは、自我と自我のぶつかりあいを大切にし、私達が「思いやり」をいっぱいかけてあげることなのです。

自主性(自己の主張)と思いやり(自我の収縮)。
この一見矛盾した概念の共存こそ
「人間」の「人間」たるところだと思います。

3. いのちへの畏敬の念を培う

今日、「いのち」の問題も様々な形で歪められています。

第1に、
現代文化は人間が「生き物」ではなくなっていく方向を向いていうということです。「生きている」ということは、物を食べ、排泄し、汗をかき、垢がでることで汚くなっていくことです。

ところが私達は、「汚くなることは悪いことで、きれいなことが、良いことである」と思いがちです。こどもたちが汚くなっていくということは、実は一生懸命生きていることなのです。

そのような目でこどもたちを見ていきたいと思っています。
便利さときれいさを追求する文化の中で、切り捨てられてきたものの中にこそ、これら大切にしなければならないものがあるように思われます。

今のこどもたちは21世紀を生きていきます。
「いのちのつながり」を基にした新しい価値観がどうしても必要なのです。

さて、人間(いや、地球上のすべての動物)が生きていくためには、 他の「いのち」を食べるということをしないではいられません。 自分の「いのち」は自分だけが支えているのではなく、回りの「いのち」によって支えられているという事実をみることが必要です。

こどもたちが、他の「いのち」言い換えれば「生き物」を食べているという実感をもつことは、大変難しくなってきています。家庭でもそうでしょうが、給食になるとなおさらです。こどもたちは出来上がったものしか口にしません。

そこで当園は、給食の時間を「いのちを考える時間」と位置付け、 こどもたちをいろんな話をします。 さらに給食の材料、例えば「サワラ」や「カツオ」などの魚を直接見たり、「えんどう」や「そら豆」の皮を剥いたりします。

過日、「カツオ」を見た時、ある子が次のように言いました。
「 あっ! さかなから 赤い血がでてるー!!」こんな体験をいっぱいしたいと思います。

第2に、
「いのち」はひとつひとつ、一人一人、それぞれに「尊い」ということです。
一人の人間の誕生は、その人の両親が生きていたことによります。その両親が生きていたということは、両親の「いのち」を支えた他の「いのち」が生きていたという事です。その両親の親は、そのまた親の親はと考えていくと、地球上に誕生した最初の「いのち」にぶつかります。

そうです、人間の誕生が尊いのは、その人の誕生には、地球上に「いのち」が誕生して以来のすべての「いのち」が結集されているということなのです。(この事は、非常に宗教的な考えのように思われがちですが、まぎれもない事実です。)

したがってすべての人間は、それぞれにかけがえのないものであり、平等なのだと思います。

「いのちの平等観」をこどもたちは、見事に持っています。
3才の女の子が、園庭のあさがおに「おはよう」と声をかけます。
またある子はツバメとお話をします。

この「いのちの平等観」を私達は、 「何を言っているの!」「つまらない事言っているんじゃありません」と言って潰しがちです。

この問題は私達自身が「いのちへの畏敬の念」をどれだけ取り戻せるかにかかっている問題なのです。